現代のもののけ姫 原因。 アシタカは成長しない 「もののけ姫」という神話

●「もののけ姫」の関連テーマを考える

現代のもののけ姫 原因

古代より、金属は銅鐸など儀式用の神器・祭器として重用され、鍬や鋤などの実用的な道具としても大いに利用されてきた。 しかし、金属を精錬するためには、まず原料となる鉱物を探すことから始めなければならず、燃料としての木材も大量に必要とし、非常に困難を極める事業でもあった。 8世紀初頭、元明天皇の時代に秩父の黒谷で自然銅が発見されたとき、年号が和銅と改められたが、金属の発見と精錬がいかに重要視されていたかを表している。 しかし、金属精錬に従事する人たちの存在は、その任務の重要性ほど歴史の表舞台には登場しなかったし、その記録もあまり伝えられていない。 その理由の一つには、日本は歴史的に農村社会であり、一カ所の土地に定住して稲作に従事する人たちが大多数を占めていた社会だったからということが挙げられる。 金属精錬の従事者は、長期の定住を前提とせず農民のような季節を巡る一定のリズムも持たない。 それゆえ、日本の社会では例外的な存在と見なされがちであった。 さらに、柳田国男に代表される日本民俗学は、基本的に稲作文化にまつわる農村の研究が中心であり、金属にまつわる伝承はあまり熱心に研究されなかったことも、金属精錬の従事者が注目されてこなかった理由のひとつに数えられる。 *タタラ場製鉄の実際とその変遷 山陰地方では、砂鉄を原料とする鑪 タタラ 製鉄が、古代より行われていた。 特に島根県の出雲地方、石見地方は、その南の美作・備中地方とともに良質の砂鉄がとれる花崗岩地帯であり、『出雲国風土記』に「諸郷より出すところの鉄堅くして尤もくさぐさの具を作るに堪えふ」と記載されているように、古代よりタタラ製鉄の中心地帯であった。 鑪 タタラ は、古くは「野鑪」といって、地面に土炉を築いただけの簡単な設備であったとされている。 中世から近世になると、製鉄技術の進歩によって恒常的な施設で製鉄を行う「永代鑪」に移行していった。 「もののけ姫」に登場するエボシ御前のタタラ場は、その設定が室町時代であることを考えると、相当に大規模で先鋭的な「永代鑪」をもっていたといえる。 タタラ場は、原料の砂鉄と木炭を確保する必要性から、普通は人里離れた山間部に設けられた。 そして、山内 さんない と呼ばれる居住区域に寄り集まって、一種閉鎖的な共同体を作り上げていた。 タタラ師は、基本的には熟練を要する特殊な技能集団であり、鉄の売買、米や日用品の輸送などといった取引を除くと外界との交流はなく、土地の農民も彼らをゲダイモンを呼んで区別していたという。 しかし、農閑期を中心に農民達がタタラ場へいわゆるパートタームに出かけて副収入を得ていた例も少なからずあったので、タタラ集団が全く閉鎖的だったわけではない。 なお、タタラ場と農村との間における鉄や米・日用品の輸送には、一般に馬が用いられた。 「もののけ姫」では牛が輸送の主役を担っていたが、史実としては、牛が用いられた例は少なかったのではないか思われる。 原料となる砂鉄は主に山間部で産出された。 砂鉄のことを小鉄 コガネ 、これを含む山を鉄穴 カンナ 山、砂鉄を含む土砂をそれを水に流して砂鉄をすくいあげる作業を鉄穴 カンナ 流しと言う。 カンナ流しは、大量の土砂を川に流す作業である。 しかし、その分の土砂はすべて流れてしまうのであるから当然ながら川の水は赤色に濁ってしまう。 「もののけ姫」の作中でも、川が赤く染まっている場面があったが、これはまさに上流のタタラ場でカンナ流しが行われていたためであろうと思われる。 中国山地の石見地方では最大といわれる矢上盆地は、もともと起伏に富んだ地形であったが、長年にわたるカンナ流しによって、その8割が平地化されてしまったといわれている。 また、島根県の江川には赤井谷川という支流があり、同じく支流である矢上川は、別名濁川と呼ばれており、下流の江津市金田には濁畑という地名もあるが、これらはいずれも川が赤く濁っていたことにちなむ命名である。 土砂を大量に含んだ濁流は、下流の田に流れ込んで土砂を堆積させる。 そのため、タタラ場と農民たちとのトラブルが絶えなかった。 そのため、カンナ流しは秋の彼岸から翌春の彼岸までの間に限るという協定が結ばれ、両者の共存が図られた。 さて、製鉄の中心となる「永代鑪」には、高殿と呼ばれる建物の中に粘土で釜が築かれ、その両側に蹈鞴と呼ばれる送風装置が置かれていた。 (鑪、高殿、蹈鞴、すべてタタラと読まれる。 ) 銑鉄を取り出すには、炉に砂鉄と木炭を交互に入れ、三昼夜、あるいは四昼夜の間送風を続けることを必要とした。 炉に送風する作業は、それ自体が大変な重労働であった。 なお、「もののけ姫」で描かれた送風装置は、蹈鞴より進歩した天秤鞴 ふいご と呼ばれるものである。 これは比較的新しい時代の登場したので、室町時代にはまだ普及していなかった。 もっとも、これを使った送風作業 タタラ踏み も重労働であることには変わりがない。 ところで、史実におけるタタラ場は、本来浄めが厳重な場所であり、出産・月経などの赤不浄を極度に嫌ったという。 タタラ踏みの要員も通常は男性であり、「もののけ姫」で描かれたように、若い女性ばかりでタタラを踏む例はほとんどなかったのではないかと思われる。 タタラ製鉄は、江戸時代に入っても増大する鉄需要をよく支えた。 しかし、明治時代になって洋鉄とその製法が入ってくると、近代的で大規模な製鉄所が交通の便のよい各地の海岸地帯に建設されていった。 それに伴い、生産規模が小さく、交通の不便な山奥に立地する従来のタタラ場は次第に減少していった。 現在では、美術品としての日本刀を生産するためといった特殊な需要に応えるために細々と生き残っているだけである。 伝統のカンナ流しも、大正時代から昭和に入っても一部の地方でかろうじて残っていたが、昭和46年に水質汚濁禁止法の施行によって禁止され、ついにその歴史を閉じた。 *「タタラ場」の権力システム エボシ御前が率いる「タタラ場」は、言うまでもなくタタラ製鉄を行う一大工場として描かれていた。 そこには、直接製鉄に携わるタタラ者だけにとどまらず、砂鉄を採取する人々、鉄や食料を運搬する牛飼い、傭兵部隊ともいえる石火矢衆、あるいは「タタラ場」を守るための武器を開発する人々までが一緒に暮らしていた。 「タタラ場」の中には、製鉄に関連する設備だけではなく、家畜の世話をしたり食料を煮炊きしたりする生活臭の漂う「街」と呼べる区画があり、周囲には堅固な城壁が張り巡らされ、さしずめ都市国家としての様相さえ漂わせていた。 「もののけ姫」では、「タタラ場」どのようにして成立したのかについて詳しくは語られない。 エボシ以前も、もともと小規模なタタラ集団が神々の山の近くで操業していたようである。 しかし、そのタタラ集団は常々山の神(ナゴ)に苦しめられており、ある日石火矢衆を従えて現れたエボシがナゴを退治するとともに実権を握り、「タタラ場」として要塞化していったものと思われる。 エボシ御前は、直接製鉄を指揮していたわけではなかった。 製鉄の実務は従来からのタタラ者 村下 に任せていた。 石火矢衆も、もともとの所属は師匠連という謎の組織であり、シシ神退治を条件に貸し与えられた傭兵であった。 それでも、エボシ御前が「タタラ場」のリーダーとして君臨できたのは、エボシ御前の持つ「権力」によるものに他ならない。 病者を引き取り、売られた女を集めてきて働かせることが出来る者、まさに「権力」の裏付けがあるからこそである。 では、そのエボシ御前の持つ「権力」とは何だったのだろうか。 一般に「権力」というと、「支配」の側面だけが想起されがちである。 しかし、何故権力が「支配」を行いうるかというと、それは権力のもつ「保障」の側面があるからである。 「権力」は、人々の生活を何らかの形で保障することを理由として形成されている。 エボシ御前は、社会では差別されたり排斥される存在であった病者や売られた女を「タタラ場」に引き取り、その生活を保障した。 エボシ御前は石火矢衆を使って「タタラ場」からナゴの神の脅威を取り除き、襲撃から米や鉄を運搬する牛飼い衆を護衛することでその安全を保障した。 製鉄の安定した操業は、「タタラ場」に充分な食料をもたらし、それは石火矢衆の生活をも保障することにもなった。 エボシ御前は、人々の要に位置し、人々の生活と安全を「保障」し得たからこそ、「保障」と「支配」=「権力」を持ち得たのである。 支配者は、往々にして「支配」のみに目を奪われ、「支配」=「権力」という考えに陥りがちである。 しかし、エボシ御前は謙虚であった。 常に冷静沈着に振る舞い、決して偉ぶることはなかった。 そして、最小の「支配」で最大の「保障」を「タタラ場」にもたらす術を心得ていた。 だからこそ、様々な出身階層で構成された、雑多な「タタラ場」の人々をうまくまとめあげることに成功していたのであろう。 エボシ御前が握っていた「権力」は、「タタラ場」の外にも及んでいた。 エボシ御前の鉄は、市場で売りさばかれ、主に米と交換された。 タタラ操業は、大規模になればなるほど、より少ないコストで良質の鉄を生産することが出来る。 鉄製品の数々は人々の生活に欠くことが出来ないから、安価で高品質なエボシの鉄は、市場で強力な主導権を持っていたものと思われる。 市場を支配する力は、すなわち「権力」である。 エボシ御前の「権力」は、鉄を扱う商人を潤し、人々に鉄製品のある豊かな生活を保障した。 当地の武将であるアサノ公方も、何とかエボシ御前を支配下において、製鉄の利益を吸い上げようと目論んでいた。 それが実現できなかったのは、まさにエボシ御前が市場において強力な「権力」を有していたからに他ならない。 もし、力関係の上で「タタラ場」の方が市場より弱ければ、足下を見られて買いたたかれたであろう。 あるいは、女たちが作った=穢れた鉄ということで、さらに安値でしかさばけなかったかもしれない。 しかし、エボシ御前が率いる「タタラ場」の鉄は、そのような偏見の入り込む余地のないほどの価値をもって君臨した。 「タタラ場」の鉄は、エボシ御前の「権力」によってその品質を保証され、市場でも価値を与えられたのである。 ところで、もしアサノが「タタラ場」を屈服させようと企てるとしたら、防御堅固な「タタラ場」を攻めるよりも、単に「タタラ場」への食料供給をストップさせた方が余程簡単であった。 何故なら、「タタラ場」自身は食料を生産しないので、食料の供給を絶たれたら、たちまち飢餓に見舞われるからだ。 しかし、アサノが持っていた「権力」では、「タタラ場」への食料の流れを阻止することは出来なかった。 アサノが「タタラ場」に食料を売ることを禁じれば、当然市場への鉄製品の供給も止まる。 そうすれば、鉄の取引で生活する商人や鉄製品を消費する人々に深刻な影響をもたらす。 力関係でいえば、「タタラ場」が飢えるより先に、これらの人々の方が立ち行かなくなるであろう。 アサノはそれらの人々の生活まで肩代わりすることは出来なかった。 つまり、アサノは人々の生活を「保障」し得なかったからこそ、最後には軍事力に頼って直接「タタラ場」を攻めざるを得なかったのである。 軍事力に頼った時点で、アサノは既に負けていたとも言える。 映画では、「タタラ場」とアサノの戦いは首なしデイダラボッチの出現でうやむやになってしまったが、これがなかったとしても、アサノが「タタラ場」を軍事的に攻略出来たかどうかは疑わしい。 何しろ、「タタラ場」はアサノ側を上回る新型の銃を量産しており、むやみに攻撃を仕掛けてもアサノ側に犠牲者を増やすだけだっただろう。 アサノに唯一の可能性があるとすれば兵糧攻めしかないであろうが、エボシの率いる軍勢が「タタラ場」に引き返してきたら、アサノ軍は挟撃されて壊滅するのが関の山だったろう。 *経済権力の象徴=「タタラ場」 「タタラ場」の銃は強かったが、何よりも強かったのは、そこでの生産物である鉄そのものであった。 鉄製品を背景とした市場の支配は、経済的な「権力」を象徴するものであった。 その本質は「市場の所有」である。 エボシ御前は、「タタラ場」で生産した鉄を売りさばく「市場」を所有 制覇 していたのである。 これは、アサノが所有していたと「領地+農民」の概念とは異なり、いわゆるシマ、なわばりとも言うべき法的土地所有とは異なる次元に成立していた「所有」である。 正確に言えば、アサノの領地と農民が封建的所有であるならば、エボシのそれは近代的所有であり、「市場」の制覇である。 アサノのような封建的支配と重複するものではないので、エボシはしかるべき税さえ払えば「タタラ場」はアサノと充分共存できたはずである。 しかし、「タタラ場」のもつ「権力」は、アサノに税を払う必要もないほど強大なものであった。 封建的領地を必要としないエボシ御前は、アサノの領地はもちろん、領地の概念をも超えた「市場」で経済的実権を握り、君臨していたのである。 アサノの焦りも理解できようものである。 日本の支配者といえば天皇であるが、「もののけ姫」の時代背景となった中世においては天皇の政治的権力は失墜しており、宗教的な権威を保っているだけであった。 各地域を治めていたのはアサノをはじめとする武家であり、土地と農民を不可分のものとして扱う封建的支配を特徴としていた。 ここで、「タタラ場」に君臨するエボシ御前が握っていた「権力」は、紛れもなく「経済権力」であったと言える。 それは、一般的には市場経済が成立した近代以降の概念として理解され、封建的支配とは元来矛盾するものであるが、中世の日本は封建経済下にあっても、ある程度の近代的市場経済が成立していたから、エボシのような勢力が存在しても歴史的に矛盾するわけではない。 実際、史実におけるタタラ場も、その経済力を背景にして相当の独立性を保っていた。 このように考えると、「タタラ場」は中世における経済的権力の拠点として機能していたと理解することが可能である。 「タタラ場」は日本国内に位置するが、天皇の宗教的権威は及んでいなかった。 また、「タタラ場」はアサノの領地内(正確には、アサノの領地のうち人間の力が及ぶ地域=農村部と及ばない地域=シシ神の森との境界である)にも位置しているが、アサノの政治的権威も及んでいなかった。 そして、「タタラ場」の経済的権威は、鉄製品が流通する「市場」の広い地域にまたがっていた。 支配者 権力の種類 権力の及ぶ範囲 天皇 宗教的権力 日本全土 (ただし、日本全土へは宗教的影響を及ぼすのみで、政治権力は武士階級に握られていた。 ) アサノ 政治的権力 アサノの領地内 (ただし、その支配は安定せず、常に隣国から征服される危険性もあった。 ) エボシ御前 経済的権力 日本全土 (ただし、鉄の「市場」に対する主導的影響力を持っていたという意味であり、人々を封建的に支配していた訳ではない。 ) *"都市国家"としての「タタラ場」 また、「タタラ場」は、単なる製鉄工場ではなく、一種の"都市国家"としての機能さえ果たしていた。 それも、外部から原料を調達し、生産物の市場を外部に求める植民地国家に類似した経済活動を行っていた。 すなわち、森から原料(砂鉄)と燃料(木材)を調達し、「タタラ場」の内部に設けた巨大な生産設備で鉄製品を製造し、それ市場で売却することによって得られる資金によって食料を調達していたのである。 植民地国家の場合は、原料の調達先と製品を売却する市場を同じ植民地に求めるが、「タタラ場」の場合は異なっていて一方通行の流れが出来ていた。 森は、原料を収奪されるだけの存在であった。 植民地国家の場合、原料と製品の経済的な流れを確かなものにするために政治的権力(植民地を政治的に支配する)を必要とするが、シシ神の森はもともと天皇の力も武士の力も及んでいなかったから、エボシ御前は原料調達のための政治力を考慮する必要がなかった。 問題があるとすればモロ一族の怒りであるが、それさえ恐れなければ自由に山を削って原料を運んで来ることが出来た。 そして、エボシ御前は製品の売却のための政治力も必要としなかった。 もっとも、これはエボシ御前が鉄市場を牛耳ることを制御出来るだけの政治力をアサノが持っていなかったからであるという側面が強い。 アサノの領民は「タタラ場」から徴税される訳ではなく、鉄と食料の交換という経済活動によって相互に利益を得ることが出来たが、アサノは政治的権力を背景に徴税するだけだったからである。 アサノの居城周辺には中世の封建的な"都市"が発達していたが、それは強力な経済的権力を持った"都市国家"である「タタラ場」に対抗することは到底不可能であった。 このように考えていくと、エボシ御前は単に経済力を持つだけの企業家ではなかった。 小なりとはいえ、「タタラ場」という領域を統治する政治家でもあり、シシ神の森を恐れず、これと対決することさえ厭わない思想家でもあり実践家でもあった。 エボシ御前は、「タタラ場」とい"都市国家"の元首として君臨し、天皇やアサノと対等以上に渡り合っていたと言える。 原料供給地としての「森」は一方的に収奪されるだけの存在であった。 宗教的権力としての天皇の力は、ここにはほとんど及んでいない。 *「もののけ姫」とハンセン病 「もののけ姫」には包帯で全身を覆った病者が登場する。 エボシ御前は、タタラ場で作業している包帯で巻かれた人々の病気は「業病」である、と表現した。 「業病」には、難病・直りにくい病気という意味も含まれるが、ここではハンセン病=いわゆる癩 らい 病のことを指していると思われる。 実際、癩 らい 病の患者は差別の対象であり、社会から排斥される存在であり、特に近代以降にその傾向が顕著になった。 特に、明治時代、ハンセン病患者を隔離する法律が作られ、患者は強制的に隔離施設へ収容されることになった。 それは、公権力による合法的な差別であり、ハンセン病患者に対するいわれなき偏見が増幅される素地にもなっている。 そのため、ハンセン病=伝染病ではなく治る病気であることが分かった後も、偏見は長い間色濃く社会に残っている。 東京都の東村山市には、「全生園」というハンセン病患者を隔離・収容した施設がある。 宮崎駿氏の語録には「『全生園』に行ってごらん。 それまでの人生観が変わるから」というくだりがあるが、氏がこのように「全生園」訪問を勧めるということは、氏がハンセン病をよく理解しようとしていたことがうかがわれる。 ここでは、ハンセン病と社会との関わりについて考えてみる。 *ハンセン病とは、どのような病気か ハンセン病は、細菌による感染症の一種で、らい菌 Mycobacterium という細菌が体内に入り込み増殖することで引き起こされる。 主に体内の末梢神経が侵されることによる知覚まひ、運動まひなどが生じ、手足や顔に皮疹、結節 こぶ が出来たり、眉毛が脱落したり脱毛したりする、いわゆるハンセン病特有とされる症状が引き起こされたりする。 らい菌は人間の神経と親和性が高いため、簡単に神経の中に入り込む。 また、らい菌は比較的温度の低いところを好むため、人体の中でも手足の先や鼻、目、耳などの部位の末梢神経で増殖しやすい。 そのため、他の病気に比べて外見からみて分かりやすいところに変化が生じるため、「癩にかかると指が腐っておちる」「鼻が溶けてなくなる」などと呼ばれ、差別の原因になってきた。 (ただし、これらは神経障害が引き起こす二次的な症状であって、いわば後遺症に過ぎない。 ) ハンセン病は、極めて進行の遅い病気の一つとされている。 ひとつのらい菌が分裂するには数週間かかりる。 他の病原菌、例えば赤痢菌やコレラ菌は約1時間に1回分裂し、1つの細菌がたちまち数百万個にも増えて病気を引き起こすことを考えると、らい菌による病気は極めてゆっくり進行する。 感染しても、体内で菌が増えて実際に症状として現れるまでに平均数年、ときには数十年に及ぶ長い期間がかかりる。 そして、発病に時間がかかる分、治療にも長い時間がかかり、数年から十年以上にわたる治療・服薬が必要とされる。 ハンセン病は、かつて癩 らい 病と呼ばれていた。 癩 らい 病は、昔より毛穴から侵入する伝染病であるとする説や、仏罰による報いであるとする説などがあった。 江戸時代以降は家筋説=遺伝説が広く信じられていたが、1873年 明治6年 にノルウェーのアルマウエル・ハンセン氏によってらい菌が発見されると、伝染病ということになってしまった。 ここで、病気に対する理解の不足や差別・偏見が重なって、患者は社会から隔離される方向へ進んでいくことになった。 *ハンセン病とは、どのような病気か ・発病すると手足に神経障害を引き起こす。 昔は癩 らい 病と呼ばれていた。 ・感染症の一種で伝染病ではないが、昔は伝染病と考えられていた。 ・今では完全に直る病気であるが、昔は不治の病と考えられていた。 *ハンセン病患者は、何故差別されてきたのか ハンセン病を引き起こすらい菌は、結核菌と近縁関係にある。 しかし、結核が主に肺の中や骨、腸など体内で病気が進行するのに対して、手足や目・鼻・耳・頭髪など外見の目立つ部分に障害が現れるため、それだけ忌み嫌われ、偏見を生むことになった。 ハンセン病は慢性の病気で症状の進行は極めてゆっくりした病気で、必ずしも命を落とす病気ではなかった。 治療薬のなかった昔でさえも、免疫力低下などによる他の病気を併発しない限り、つまりハンセン病だけが原因で死ぬことはあまりなかったといわれている。 ただし、それがかえって長期間にわたって外見上の障害が人々の目に触れることになり、一層の偏見と差別を助長することになった。 そして、長い間病気の原因が分からなかったことも、差別を生み出す要因になった。 その昔、癩 らい 病と呼ばれたハンセン病は、「業病」や「天刑病」と呼ばれ、「過去に悪いことをした報い」とか「天が罰している刑」などとされ、差別されてきたという。 そして、差別においては何よりも社会的な要因が強く働いていることを見逃してはならない。 もともと、らい菌の感染力は、未だ培養が成功していないことから見ても極めて弱いものであり、仮に感染しても実際に発病する発症力は更に弱いとされている。 その割合は他の感染症に比べて非常に低く、1000の感染につき発病に至るのは1例以下といわれるほどである。 しかし、このような感染力が弱い菌であっても、体内の免疫系が弱っている状態、すなわち衛生状態や栄養状態が悪い状態にあれば、感染・発症する危険性は高くなってしまう。 結局、もともと社会的に差別され、慢性的に飢餓や貧困に直面している人達がより高い確率で感染・発症することになり、社会的差別と病気の差別が複合的なものになり、決定的な差別になった。 すなわち、ハンセン病に対する差別には、単に医学的な要因だけではなく社会的な要因も深く関わっていることを見逃すことが出来ないのである。 *ハンセン病患者は、何故差別されてきたのか ・手足や目鼻の崩れなど、外見の障害で病気がはっきり分る病気であったから。 ・慢性的な病気であったため、障害が長期間人の目に触れたから。 ・発病の医学的な原因が分からず、宗教的な排斥にも利用されたから。 ・社会的な因子 社会的弱者が感染しやすい により差別が助長されてきたから。 *ハンセン病=癩 らい 病の歴史はどのようなものだったか 癩 らい 病は、奈良時代には既に文献の中に登場していた。 8世紀に完成した「日本書紀」によれば、「朝鮮の百済から『白癩』の者が渡来した」とある。 けれども、ここでいう「白癩」には、いわゆる癩 らい 病=ハンセン病だけではなく、その他皮膚病一般の病気も含まれていたとされている。 12世紀の「今昔物語集」には、「比叡山の僧侶が法会 ほうえ を妨げ、尊い僧にたいして嫉妬した報いとして『白癩』となり、周囲から穢れた者として排斥され、京都の清水坂の庵に入って間もなく死んだ」という話が記載されている。 このことから、癩 らい 病を患う者は差別の対象とされて忌み嫌われていたことがうかがわれる。 癩 らい 病に感染したことが分かると、その人は故郷を追われ、放浪の民となることが少なくなかった。 「癩者」は非人として扱われたのである。 そのため、彼らは物乞いで生計を立てるほかなかった。 ある者は寺院で施しを受けて生活した。 鎌倉時代には、律宗の僧叡 えいそん ・忍性 にんしょう が奈良に集まる「癩者」を救済したとされている。 薬師寺の近くには西山光明院が設けられ、薬師寺の保護のもと「癩者」がそこに収容されていた。 また、忍性は鎌倉の極楽寺でも「癩者」の救済を行っている。 時宗の開祖一遍の布教を描いた「一遍聖絵」には多くの「癩者」が描かれていることはよく知られている。 一遍のもとに集まった時衆のなかには、多くの「癩者」が含まれていた。 ただし、「一遍聖絵」を見る限り、「癩者」は他の「乞食」の集団と明らかに区別されているので、やはり差別の対象となり虐げられていたことがわかる。 室町時代以降は「癩者」に関する事実を示す史料が少なく、「癩者」の実態はよく分からない。 しかし、16世紀以降に来日したカトリック宣教師たちは、積極的に「癩者」救済に関わったという。 特にフランシスコ会は熱心で、フランシスコ会宣教師たちが設けた修道院にはたいてい「癩病院」が付属で設けられていた。 その場所は、大坂・肥前・有馬・長崎・京都・伏見・江戸・広島・和歌山などにまたがり、1607年の大阪では4か所に約400人の癩 らい 病患者が収容されていたという。 宣教師による「癩者」救済は、江戸幕府によるキリスト教弾圧によって消滅を余儀なくされたが、その時、多くの「癩者」も殉教したといわれている。 江戸時代に入っても、「癩者」の生活は寺社の門前や、町家を回っての物乞いによって生計を立てざるを得なかった。 京都では、五条橋を過ぎて清水坂に向かうあたりに「癩者」の集落が形成され、市中や清水寺への参詣者に物乞いをしていたという。 さて、「癩者」、すなわちハンセン病患者は、ざっと人口1000人あたり1人くらいの割合でいたと推定される。 原因が分からず治療法もない当時は大変恐れられていたが、社会から隔離されることはなかった。 差別され、忌み嫌われていても、ある意味で社会と共存していたということも出来る。 癩 らい 病によって死体の山が築かれることはなかったし、癩 らい 病患者の交際範囲に感染者が続出したわけでもなかったからである。 しかし、明治時代になると、癩 らい 病患者をとりまく環境は一変する。 遺伝病と信じられてきた癩 らい 病が感染する病気であると分かって、8種伝染病に追加されると、あたかも伝染病の王であるかのように宣伝され、ひどいものになるとコレラやペストよりも恐ろしいと見なされるほどであった。 実際の感染力は非常に弱かったのであるが、国家の強力な宣伝は癩 らい 病=恐ろしい病気という考えが国民全体に行き渡らせることになった。 近代化を急ぐ明治政府にとって、諸外国では既に過去のものになりつつある癩 らい 病が、未だ日本では蔓延しており、放浪したり神社・仏閣の前で物乞いしたりしている癩 らい 病患者を放置しておくことは国家の体面にも関わることだったという事情もある。 そこで、癩 らい 病患者の隔離が進められることになった。 当時の隔離所設立を訴える文書には、次のような記載がなされている。 「流浪せる癩患者が社会に病毒を蔓延せしむること多大なるは論を侯たざるも、なお恐るべきは彼らにして乞食をなすを肯せず、職人となり舟子となり飲食物製造者となり、甚しきはその両親癩にして、その子をして理髪人たらしめ、あるいはその夫癩にしてその妻に飲食物をひさがしむるの類に至りては実に危険極まれりと謂わざるべからず。 」 悪しき病毒が個人から家族を経て、やがては親族の全般へと高波のように広がってゆくイメージは、劣悪な素質が世代を貫いて拡散してゆく悪夢めいた光景を連想させるのに充分なものだった。 そして、 「浮浪者の記念なるは四股に生じたる潰瘍を治療する由なく、この傷より周囲に放散する無数の病毒乾燥して結核菌のごとく周囲に飛散す、独り潰瘍のみならず、不潔なる衣服に付着する病毒患者の動作によりまた周囲に飛散し、喀痰鼻汁の乾燥したるものまた結核患者の喀痰と同一の危険物にして、この病毒の様々の機会を持ち、癩病に侵され易き体質に寄生発育して数年の潜伏期間をもってこの人を癩病たらしむ。 この恐るべき病毒の散布者たる浮浪癩病者は諸国の至る処に徘徊し、ことに神社仏閣名所旧跡の地にして人の集合するところは彼らの生活に尤も便宜なる所として群衆するを見る。 」「このごときは一国の体面ないし一家の恥辱のごとき無形的損害のみにとどまらず、実に公衆衛生上の有害物にして、隔離所を起こし、これらの患者を強制的に収容するにあらずんば、国家は罪悪を行いつつあるものと云うべし」(養老院月報) とまで表現され、もはや病気の治療を目指すのではなく、国家の体面を保つために癩 らい 病患者の隔離が進められていった。 そして、1909年に「癩予防ニ関スル件」という法律が制定され、数度の改正を経て1931年に「癩予防法」となって、全ての患者の隔離が法律によって規定されるに至ったのである。 ところで、鎌倉時代に書かれた『元享釈書』(げんこうしゃくしょ)には、奈良時代、光明皇后が「癩者」に接したという故事が記載されている。 光明皇后は藤原不比等の娘で聖武天皇の皇后となった人物である。 皇后自ら「癩者」の崩れた肉体を舐め回し、体中の膿を吸い尽くすと、その患者は如来になったという。 この高貴な皇后が癩 らい 病患者をいたわるという構図は、近代以降、皇室の「仁慈」の象徴とされた。 もっとも、これは「癩者」を救済するというよりは皇室の力を誇示するためといった要素の方が強く、そのために「癩者」の魂はかえって貶められたという側面をも併せ持っていた。 誰にも真似することの出来ない皇后の善行は、同時に「癩者」の救いがたいおぞましさを一層想起させるものだったからだからである。 かくして、「癩者」はより一層激しく差別され、隔離されて社会から完全に切り離された存在になっていった。 特に「癩予防法」の制定は、アジア地域へ侵略を進める当時の国策の中での民族浄化思想やファシズム思想とも影響しながら、国民の間に癩 らい 病は隔離しなければならないような恐ろしい伝染病であるという恐怖心を植え付けることとなり、それは戦後数十年を経ても容易には消えない根深い偏見を残すことになっってしまった。 *ハンセン病=癩 らい 病の歴史はどのようなものだったか ・歴史は古く、奈良時代 8世紀 の記録までさかのぼる。 ・昔から約1000人に一人の割合で発生し、その割合は一定していた。 ・「非人」として扱われ、物乞いなどで生計を立てていた。 放浪する者もいた。 ・差別される存在であったが、寺院・僧侶などによる救済も行われ、一応社会の中で共存していた。 隔離・収容され、不当に迫害されるようになったのは、明治以降の国策によるものが大きい。 *ハンセン病への偏見はどのようになくしていくべきか 根拠のない偏見により、社会から不当に排斥され差別されてきたこと自体が、ハンセン病患者の受けた大きな差別の歴史を表すものであるが、特に明治以降、国家権力によって進められた隔離政策により、患者の基本的人権が「合法的に」侵されたことが最大の問題であったと言わねばならない。 戦後になって改正された「らい予防法」も、依然として国家が患者の基本的人権を抑圧する性質を持っていた。 普通に暮らしていた患者をある日突然着の身着のまま療養所へ連れ去る強制隔離に法的根拠を与えるものだったからである。 これに退所規定は定められていないため、一度療養所に入ると生涯そこで過ごすことを事実上強制させられた。 現金は取り上げられ、療養所の中でしか通用しない「金券」と交換させられたりしたが、この「金券」には法律的な根拠は何らないものだった。 また、ハンセン病は遺伝病ではないのに、患者は半ば強制的に断種手術を受けさせられた。 戦前に制定された「国民優性法」には、遺伝性による断種の対象としてハンセン病は入っていなかった。 しかし、ハンセン病は遺伝性の見なされた疾病に準じるものと拡大解釈され、断種が公然と行われた。 (戦後に制定された「優性保護法」にも、断種と人工妊娠中絶の対象としてハンセン病患者が明記され、この規定は1996年4月に「らい予防法」が廃止されるまで存続していた事実は驚くべきことであると言わねばならない。 ) 1953年には「癩予防法」を改正した「らい予防法」案が国会に提出された。 しかし、これは患者とその家族に対する差別を禁止しつつも、患者の隔離を合法化し多くの人権を抑圧するもので、法案そのものが差別的である内容は何ら変わるものではなかった。 この法案には1951年に結成された「全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)」などハンセン病患者の人権回復を目指す人達から激しい反対運動が起こったが、癩 らい 病=ハンセン病が恐ろしい病気であるという偏見が社会全体になお強く残っている背景もあって、付帯決議がついたものの結局法案は成立してしまった。 その後も、法律の廃止を求める地道な運動が続けられたが、結局40年近くも放置され続け、1996年4月に至ってようやく「らい予防法」は廃止されることとなった。 国家権力による差別は、ハンセン病=恐ろしい病気という恐怖心を国民に植え付け、民族浄化とファシズム思想と連関して大きな差別の嵐を作り出した。 その偏見は戦後数十年経っても根強く残り、差別の対象は患者本人のみならず家族にまで及び、家族・親族への婚姻忌避、入店拒否、子どもの修学拒否、転居を迫る嫌がらせなど、様々な形での迫害になって表れた。 それらの偏見は、現在をもってなお解消されたとはいえない。 さて、「らい予防法」の廃止により、ハンセン病はようやく一般の感染症としての地位を得た。 これまでのような隔離ではなく、一般の外来と同様、普通の病気として扱われるようになった。 もちろん、感染症であるから不用意な感染予防を講じなければならないことは言うまでもないが、かつてのように医者や看護婦が診療を拒否したような、無理解と誤解に基づく誤った対応が繰り返されてはならない。 そのために、いまなお社会に残るハンセン病に対する偏見をねばり強く取り除いて行かねばならない。 次に、療養所を出て社会復帰していく人への支援を強力に進めて行かねばならない。 新しい法律は、現在ハンセン病療養所に入所している人にも在宅患者にも、国の費用による援護がなされることを規定している。 しかし、これは最低限の保障であって、患者のそれぞれが望む生活をバックアップするものとはいえない。 例えば、医療保険の問題は今なお未解決のままである。 また、法律の中にも元患者の社会復帰を支援すると規定されているが、それ以上のものではなく、予防法の廃止を受けて療養所を去った人もほとんどいないのが実状である。 実際問題として、どのようにして効力ある施策を提示・運用していくかが強く問われているのである。 さらに、ハンセン病の患者だけではなく、その家族の問題についても見落とすことが出来ない。 「らい予防法」による強制隔離では、患者本人だけではなく、その家族もまた犠牲になった。 家族の中から患者を出したために故郷を捨てざるを得なかった家族、離散してしまった家族は少なくない。 しかし、これらの人々に対する保障や支援は全く考慮されていないのが実状である。 少なくとも、社会全体の偏見をなくしていかなければ、解体してしまった家族の将来は浮かばれない。 そのためには、強制隔離を法律で規定したハンセン病政策と国家による患者への人権侵害の歴史を正しく認識し、これを風化させない教育・啓蒙活動も重要になるだろう。 私たちは、ハンセン病に対する知識を正しく理解し、何故ハンセン病患者が差別されなければならなかったのかを認識し、意識的、無意識的に関わらず差別的な視点をもってハンセン病およびハンセン病患者を見ないように努めなければならない。 *ハンセン病への偏見はどのようになくしていくべきか ・誤解と偏見により、ハンセン病患者が国家によって合法的に差別されてきた歴史を、まず認識する必要がある。 ・「らい予防法」が廃止されてもなお、社会に残っているハンセン病に対する偏見をねばり取り除いて行かねばならない。 ・療養所を出た人々の社会復帰およびその家族に対する支援を進めていかなければならない。 ・これらを実現するための教育・啓蒙活動がとりわけ重要である。 参考文献 「癩者の生」澤野雅樹 青由弓社 「知ってならないか?ハンセン病と人権」ハンセン病と人権を考える会 編 解放出版社 「隔離」徳永進 岩波書店 「片居からの解放」大谷藤郎 など.

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ハンセン病の芸能人/有名人!症状と見た目・原因・もののけ姫など関連ジブリ作品も紹介【画像多数】

現代のもののけ姫 原因

もののけ姫 監督 脚本 宮崎駿 製作 製作総指揮 出演者 音楽 主題歌 「」 撮影 編集 制作会社 製作会社 配給 Alliance Films 公開 1997年7月12日 2020年6月26日(revival) 1999年10月29日 1999年11月26日 2001年10月19日 2003年4月25日 上映時間 133分 製作国 言語 製作費 21億円 興行収入 193億円 配給収入 113億円 『 もののけ姫』(もののけひめ)は、制作の長編作品。 監督は。 (9年)公開。 宮崎が構想16年、制作に3年をかけた大作であり、興行収入193億円を記録し当時の日本映画の興行記録を塗り替えた。 映画のキャッチコピーは「生きろ。 」で、のが考案した。 声優は『』のおキヨの、『』のマンマユート・ボスの、『』のナウシカのとアスベルのといった過去のジブリ作品にも出演した者が起用されている。 なお、1980年(55年)に宮崎駿が企画案のイメージボードとして構想した同名の作品があり( 『宮崎駿イメージボード集』。 1983年に収録)、1993年(平成5年)にそれを基にした絵本( 『もののけ姫』。 )が出版されているが、本項目が解説する作品と直接の関連性はない。 あらすじ [ ] 中世(の頃)の日本。 東と北の間にあると言われるに住む少年 アシタカは、村を襲った タタリ神と呼ばれる化け物を退治したが、右腕に死の呪いを受けてしまう。 その正体は、何者かに鉄のつぶてを撃ち込まれ、人への憎しみからタタリ神と化した巨大なイノシシの神(ナゴの守)だった。 アシタカは呪いのため村を追われ 、呪いを絶つためにもイノシシが来た西の地へと旅立つ。 旅の道中、に奔るとの戦いや、謎の男 ジコ坊との出会いを経て、アシタカはジコ坊から聞いた神が住むという深い森がある地に向かう。 アシタカは山奥で倒れていた男達を助け、彼らの村へ連れて帰る。 その村は場と呼ばれる、鉄を作る村であるという。 そこを治めている エボシという女は、石火矢と呼ばれる火砲を村人に作らせ、山に住む"もののけ"や、村の鉄を狙う地侍たちから村を守っていた。 アシタカが助けた男達も"もののけ"に襲われたもので、呪いを与えたイノシシの神に鉄のつぶてを撃ち込んだのもエボシだという。 彼等は鉄を作るために自然を破壊している自覚はあったが、 シシ神に力を賜り大きな力を得た動物、即ち"もののけ"達を快く思っていなかった。 アシタカは、これ以上憎しみを広めるなとエボシに忠告するが、村人達にとってのエボシは、生きる希望を与えてくれる女性でもあった。 そのエボシの命を、"もののけ姫"が狙いにくる。 その正体は山犬に育てられた人間の娘、 サンだった。 窮地に陥ったサンをアシタカは救うが、同時に彼は瀕死の重傷を負ってしまう。 倒れながらもアシタカは、生きろ、とサンに語りかけるが、人を憎むサンは聞く耳を持たずに、助けてくれたアシタカを殺そうとする。 しかし、アシタカから美しいと言われたサンは、動揺して思いとどまる。 サンはアシタカを、生と死を司る神、シシ神の前に連れて行く。 シシ神はアシタカの傷を癒し、それを見たサンはアシタカを生かすと決める。 サンはアシタカを介抱するうちに、しだいに彼に心を開いていく。 アシタカも、森と人が争わずに済む道は無いのかと、思い悩む。 そのころタタラ場には、エボシにシシ神殺しをさせようとする怪しげな装束の男達が集結していた。 彼等を率いるのはジコ坊である。 男達はよりシシ神殺しを許可され、不老不死の力があると噂されるシシ神の首を狙っており、エボシ達もまた、森を切り開くのをもののけ達に邪魔されぬよう、それに協力したのである。 タタラ場を出発したエボシ達は、人間との最終決戦を行おうとするイノシシの大群と大戦争をはじめる。 ところが、エボシが留守にしたタタラ場は、鉄を狙っている侍の集団に襲われてしまうのだった。 アシタカはエボシに戦いをやめて村に帰るよう伝えるが、エボシはかまわずシシ神殺しに向い、遂にその首をとる。 するとシシ神の体から不気味な液体が大量に飛び散り、それに触れた者たちは死に、木は枯れてしまう。 やがて液体は津波のような勢いで山を埋め尽くし、森は枯れ果てて、タタラ場も壊滅してしまうのだった。 サンは森が死んだと絶望し、人間に対する憎しみを爆発させる。 しかし、アシタカはまだ望みはあるとサンを説得し、二人は協力して、シシ神の首を持って逃げようとするジコ坊を押しとどめ、首をシシ神に返す。 シシ神は首を取り戻したが、朝日を浴びると同時に地に倒れて消える。 その風が吹き抜けると、枯れ果てた山には僅かながら緑が戻り、アシタカの腕の呪いも消えた。 アシタカは好きだが人間を許すことはできないと言うサンに、アシタカは、それでも互いの世界で共に生きようと語る。 エボシもタタラ場の村人達に、新たに良い村を作りなおそうと語りかけるのだった。 登場人物 [ ] アシタカ 本作の主人公。 17歳。 ヒイ様からは「アシタカヒコ」と呼ばれている。 ヤマト王権または大和朝廷 との戦い 史実においては平安時代に起きたの蝦夷征討 に破れ500年余り経過し、朝廷や(武家政権)も衰えていた時代 室町時代後期、で京都は荒廃し、室町幕府の体制は瓦解していき、朝廷も権威が落ち込んでいた。 更に東国では室町時代中期のや以降、中央の統制が及ばぬ戦乱の時代が既に訪れていた 、北の地の果てに隠れ住む民族である一族の数少ない若者(エミシ一族も既に衰亡しつつある事をヒイ様達が口にしている)。 東と北の間にあると言われる蝦夷の村の王になるための教育を受けた一族の長となるべき少年であり、それにふさわしい気品をもつ。 無口だが正義感が強く潔く 、村を襲おうとするに矢を放ち、命を奪う事と引き換えに死の呪いをかけられる。 それがきっかけとなり、村を追われる。 右腕には、呪いの印である「赤黒い痣」がある。 10人がかりで開けるタタラ場の大門を1人で開けるなど「強大な力 を与える代わりに、少しずつ呪いが進行して、じきに命を奪っていく」というものである。 人を殺そうとしたり、タタリ神が恨みを持っていた人物が近くにいたりすると、呪いが暴れだす。 人を殺めたり、力を使った後には呪いが進行している。 サンと共に首を奪われた事で死の呪いを振り撒き、暴走していたシシ神に首を返した後は、その行為の礼としてか痕は残ったものの呪いの痣が消え去り、死から免れることが出来た。 狩猟で鍛え上げた、優れた弓術と高い身体能力とを持つ。 また、タタラ場の女性たちからは好意を持たれており、トキいわく「」である。 ヤックル アカシシと呼ばれる大。 主人であるアシタカとは常に一心同体の関係にある。 のちにサンやモロの子達と親しくなる。 アカシシは古くからエミシ一族に騎乗用に使われており、ヤックルの他にも村で飼われている個体の描写がある。 カヤ エミシの村の娘。 アシタカを「兄様」と呼ぶが、実の兄妹というわけではない。 本当は里公認のアシタカのだった。 アシタカが村を出て行く際には、エミシの乙女が変わらぬ心の証しとして異性に贈るならわしのもの である玉()の小刀を贈った。 仲間とともにタタリ神となったナゴの守に襲われて危機一髪だったところを、アシタカに守られる。 村の掟でアシタカの見送りをしてはいけないが、掟を破って罰を覚悟で見送りし黒曜石の小刀をアシタカに渡している。 後にこれはアシタカがモロの子を通してサンに贈った。 ナゴの守 神。 山にある砂鉄を狙ったタタラ者達を退けていたが、エボシが連れた石火矢衆により同胞達は殲滅され、自身もエボシの放った銃弾により傷を負う。 その後、タタリ神になって彷徨い、アシタカの村を襲った。 アシタカの放った矢によって致命傷を負うが、引き換えに死の呪いをかける。 最期は人間への強い憎しみの言葉を吐きながら息絶えた。 ヒイ様の命令により村で塚を作って埋葬される。 タタリ神となって襲ってきた今件によって、アシタカが最終的にタタラ場に辿り着くきっかけとなった。 アシタカがタタラ場到着後に山犬に襲われて死んだ牛飼いの通夜に参加した折に、エボシの業績としてナゴの守退治が男達の話題になる。 後にエボシとの対話の際、呪いが怨念として暴走し、アシタカの右腕は勝手に動いてしまう。 ヒイ様 エミシの隠れ里の老であり、村をまとめている。 タタリ神になったナゴの守に対して塚を作って埋葬する。 石や木片などを並べてまじないで吉凶を占う。 タタリ神の呪いを受けたアシタカを占い、西で不吉なことが起きているので西へ向かうよう告げる。 村の衆にアシタカを救ってくれないかと懇願されるが、呪いはヒイ様の力でもどうにもならずナゴの守の死体内から出てきたタタリ神になる原因になった石火矢のをアシタカに手渡し、掟に従って見送りなしで旅立つよう言い渡した。 サン 本作のヒロイン。 15歳。 犬神(山犬)に育てられた人間。 モロの君によると「森を犯した人間が、我が牙を逃れるために投げよこした赤子」だという。 自然を荒らされた恨みから人間を深く憎んでおり、巨大な山犬に跨り、タタラ場やエボシ御前に何度も襲撃を繰り返す。 自分は山犬だと強く思い込むが、アシタカに出会い、荒ぶる神々と人の間で心が揺れ動く。 アシタカが、シシ神に助けられた際には、彼を手助けした。 名前は、1980年に宮崎駿がアニメ企画案として構想した作品のヒロインが「三の姫」(三番目の姫)だったことに由来する。 映画のラストにサンが言った「アシタカは好きだが人間を許すことはできない」はアシタカのプロポーズに対する答えである。 監督いわく「 あの後 ふたりはしょっちゅう会っている」。 モロの君 二本の尾を持つ白く大きな300歳の。 メスで母親である。 実子の2頭の山犬同様に、人間に捨てられたサンを育て、娘として愛している。 人語を解し、高度な知能と強靭な力を持つ。 犬神として恐れられているが、性格は基本的には争いを好まない子供想い。 サンと同様に人間を嫌っている。 シシ神の森を侵すエボシ御前を憎み、命を狙っている。 ナゴの守同様にエボシから石火矢による傷を負わされ、加えて寿命が間近に迫っているのも相まって、既に身体が弱っているが、タタリ神と化したナゴの守と違い己の死を受け入れている。 最期は、タタリ神になりかけた乙事主との戦いで力尽きるが、死に際、体から分離し首だけになりながらも、執念でエボシの右腕を食い千切った後飛び散ったシシ神の体液に飛び込んでいった。 乙事主(おっことぬし) 四本牙を持つ巨大な白い猪神。 500歳の最長老。 老齢のために目はすでに見えないが、嗅覚と洞察力が鋭く、ジコ坊達の偵察を見抜いた。 一族であるナゴの守の死を受け、()からシシ神の森を守るために海を越えてやって来た。 他の猪神を率いて、人間に大攻勢をかける。 モロの君とは旧知の間柄で良い仲だったが、百年ほど前に別れた。 モロいわく、「少しは話の分かるやつ」。 終盤、一族を引き連れて人間達と戦うも重傷を負い、錯乱状態となりタタリ神へと変貌を遂げていくが、最期は、完全にタタリ神になる前に、シシ神に命を吸い取られた。 名前の由来は、宮崎のがあったの乙事から(下のエボシ御前、甲六なども)。 モロの子 人語を解する2頭のの兄弟。 サンを乗せ、共に人間と戦う。 エボシ御前 深山の麓で、タタラ集団を率いる冷静沈着な女性。 サンと互角の剣戟を繰り広げる実力を持ち、山犬の特性を知り戦略を立てるなど頭も切れる。 山を削って得た薪を以て、川を浚って得た砂鉄を沸かし、鉄を打ち石火矢をも造りだす製錬場を築いたが、それが今回の争いの元となる。 売られた娘達を買い取り、本来はのタタラ場で仕事を与えている。 癩病患者(と思しい)の「病者」をも人として扱う徳を持ち、タタラ場の人々に敬われかつ慕われている。 一方で必要とあらば、タタラ場の人間をも見捨てたり、敵対する者には容赦がなかったりする。 終盤でジコ坊と共に部下を引き連れて、シシ神狩りに向かうが、石火矢でシシ神の首を落とした後、モロの君に右腕を食い千切られる。 シシ神が消えた後は、生き残ったタタラ場の者たちと共に新しい村作りを決意した。 石火矢衆 シシ神退治を条件に「師匠連」という謎の組織からエボシに貸し与えられた四十名の傭兵集団。 柿色の着物に白い頭巾といった装束。 から輸入したを使い、と戦う。 ナゴの守の同胞を殲滅し、森を焼き払った。 鉄や米の運搬時の護衛で、タタラ場全体の警備も務める。 終盤、飛び散ったシシ神の体液を浴びて多数が命を落とし、生き残った者はジコ坊と行動を共にしていた一人を除いて逃亡した。 タタラ者 タタラ場に住む製鉄集団。 黒装束に身を包み、昼夜を問わず鉄を作り続けている。 ゴンザ エボシの側近。 禿頭の大柄な男。 牛飼いやワラット(藁徒:藁製の傘を被るエボシの護衛)の。 威張り屋かつ短気であり、アシタカをと疑うが、本人は全く真面目。 トキには言い負かされている。 エボシに惚れている。 泳げない。 ジコ坊 物語の序盤、シシ神の森の存在をアシタカに教えた人物。 中年の小柄な僧体の男。 実は謎の組織「師匠連」の一員で、その命令により、不老不死の力があるとされるシシ神の首を狙っている。 唐傘連の頭領。 石火矢衆の頭でもあり、狩人(ジバシリ)などをも動かす。 アシタカと出会う時にアシタカがタタラ場に向かう途中の村で米を買う時に代金として砂金の大粒を支払った際に、他の人間が気づかなかった中で砂金であることを見抜くなど金品の知識は豊富である。 何かとアシタカを気にかけており、多少なりアシタカには好感を持っているようである。 しかし、シシ神退治の知識には疎かったようであり、敵のイノシシ軍団のリーダーの乙事主のことを知らず、部下のジバシリの指摘で鎮西から一族を引き連れてやってきたことを知る。 一本歯の高下駄を履きながら岩から岩へと身軽に跳躍したり、ヤックルと並走できるほどの俊敏さなど高い身体能力を持つ。 基本的に自身が率先して戦おうとはせず実力を隠しているが、緊急時にはアシタカと渡り合えるほどの武術の手練れでもある。 シシ神の首を取った際には一晩中走り回り、翌朝未明の日の出寸前までシシ神の体液から生き残ったわずかな部下の唐傘連などの人員とともに逃げ切ったが、アシタカに捕まって押さえ込まれている間にシシ神に追いつかれて逃げ場を無くし、仕方なくシシ神の首をアシタカに渡す。 表立っては飄々とした性格であるが、エボシをシシ神殺しのために利用しようと部下を諭す一面もあるなど(一方のエボシもジコ坊達を信用仕切っていないことをタタラ場の女衆に打ち明けている)食えない男である。 唐傘連 ジコ坊に付き従う謎の集団。 ジコ坊と同じ赤白の着物及び頭巾の僧体といういでたち。 常に巨大なをたずさえ、暗器や煙玉など忍のような技を使う。 唐傘は柄と笠を分離する事ができ、柄は長い吹き矢となって毒針を撃ち込む。 ジコ坊の指揮下で、シシ神の首を狙って暗躍する。 目的のためには手段を選ばない。 終盤、飛び散ったシシ神の体液を浴びて多数が命を落とし、生き残った者はジコ坊と行動を共にしていた二人を除いて逃亡した。 乙事主の猪軍団との戦闘において、味方戦力であるタタラ場の男衆を捨て駒にしたり、タタラ場が侍に襲撃されている事態をエボシに伝えるためにモロの子を救助しようとしていたアシタカに毒針を放つなど、タタラ場とその住民たちを全く顧みない言動のために男衆の反感を買い、アシタカに加勢した男衆に農具で殴られた者もいた。 ジバシリ(地走り) ジコ坊に雇われた通常の狩人よりも山野の知識に長けた者達。 もののけに人と見破られないよう獣の生皮を被ったり、その血を顔に塗るなど、特殊な術を使う。 その異相ぶりからタタラ場の人間達にも気味悪がられていた。 シシ神への偵察中にシシ神の姿を見ると目がくらむなどと怯えジコ坊にたしなめられた者がいるなど山の民として神を恐れる傾向が強い。 描写されていないが、飛び散ったシシ神の体液を浴びて多数が命を落とし、生き残った者たちは、僅かに生き残った石火矢衆や唐傘連と共に一目散に逃亡した。 シシ神() 生命の授与と奪取を行う山の神。 夜そのもので、神の中では下級に位置する。 新月の時に生まれ、月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返す。 その首に不老不死の力があると信じられている。 昼の姿は角が無数に頭頂部から生えた猿のように赤い人面の鹿(猫のような目と鼻、ヤギのような耳、猪のように前身が発達した胴体、カモシカのように長い体毛、小さな犬のような尾、3つの蹄のある鳥のような脚といった無数の動物の様態を持つ)のような生き物で、水面を浮いて歩き地面では歩く度、足下で植物が一斉に成長しては枯れる。 夜の姿はディダラボッチで、独特の模様と半透明な体を持つ。 体内で青い光を放ちながら、夜の森を徘徊し 、森を育てている。 昼から夜の姿に変わる瞬間にエボシの新石火矢で首を飛ばされた際は、黒い体液となって飛び散った後、首を求めて暴走を始め、あらゆる生物の命を奪い取り死に至らしめた。 朝日を浴びて消滅寸前となり、すんでのところでアシタカとサンの手で首を返されたものの時すでに遅く、倒れこむと共に消滅してしまった。 その際、辺り一帯に行き渡る程の暴風を起こし、その風の力によって枯死していた山々の植物を甦らせる息吹を与えた。 より大型の霊長類。 夜毎崩された斜面に集まり、森を取り戻すため木を植えようとする。 森を奪った人間を憎んでいる。 人間を倒す知恵を得るために人間を食べようと考え、サンに重傷を負ったアシタカを渡すよう要求する。 エボシと猪達の戦いの直後、森に入ってきたジバシリに慄き逃げ出す。 牛飼い タタラ場に住んでいる牧畜・荷駄を担う職能集団。 主に男性の職業で牛を馴らし、牛に荷物を付けて米や鉄の運搬の仕事を担う。 石火矢衆のように武器を持つ戦闘員ではないが、普段は山犬のモロ一族に襲われる危険な役回りで死傷者が多数出る役職でもある。 山犬モロ一族の攻撃を避けるために移動中は石火矢衆の護衛を受けるが、それでも山犬に襲われて甚大な被害が出る。 劇中では甲六含め4人が山犬に襲われて谷底に転落し、甲六含め2人がアシタカに救助され生還し残り2人が死亡扱いで通夜が営まれている。 甲六 トキの夫で牛飼いの一人。 集中豪雨の中で米を運搬中、モロの子の山犬に襲われ谷へ転落し、川の中からアシタカに助けられた。 明るくドジだが憎めない性格。 牛と共に谷に落下した際には右腕を骨折したが、シシ神の風を浴びた後は折れた腕が治っていた。 怪我でエボシ率いる男衆のシシ神退治に参加できなかったが、戦死者が多数出た乙事主のイノシシ一族との激戦に参加せずに済み、塞翁が馬状態になった。 タタラ場に留守番で妻のトキとともに女衆のタタラ場防衛隊に参加し、侵攻してきたアサノ軍と戦うが、腕を負傷していて武器を使えず戦力としては活躍していなかった。 さらにアシタカがやってきた際に預かっていた弓矢を手渡すが、蓑と鞍も持って来なかったので、トキに「この役立たず! 」と責められる。 トキ タタラ踏みのまとめ役で甲六の妻。 ゴンザを言い負かし、夫にも愛情故のきつい言葉を投げつける程、肝の据わった人物。 女衆のリーダー的存在である。 タタラ場がアサノ軍の攻撃に遭った際には敵の攻撃の合間の一晩中起きて警戒し、シシ神の体液がタタラ場に襲ってきた時もアシタカが来た際に受けた「触れると命を吸われるが水で進行が遅くなる」という助言を守って、全員を湖に避難誘導する。 甲六がタタラ場が壊滅する様子を見て絶望しているところを見て「生きてりゃ何とかなる! 」と励ますなど、ポジティブ思考の持ち主。 病者 タタラ場の別棟に住み、エボシが引き取り看病している。 新石火矢の製造を任され、開発に成功する。。 トキと親しい病者の女性が、最後はシシ神の風を浴びて病が治ったと思しき描写がある。 侍 鉄のためにタタラ場を狙う大侍()・アサノ配下の武者達。 下記の野武士と違い、完全武装で統率の取れた攻撃を仕掛ける。 鉄の貢納を要求したアサノの使者がエボシの命令でトキ達女衆により追い払われたため、報復と金になる鉄奪取のためにエボシと男衆がシシ神退治に出かけて留守のところを狙って侵攻してくる。 後にタタラ場に侵攻してきたアサノ軍は、タタラ場の下の城郭を攻め落とし、多少の物資を略奪したが、直後にシシ神 デイタラボッチ の体液が襲ってきたためにタタラ場付近の陣地から慌てて全軍が撤退し、タタラ場もシシ神の体液で破壊焼失したので、ほとんど得られたものは無かった。 劇中ではアシタカに気付いた侍が鏑矢を放ち、集まった騎馬武者達数人が連携してアシタカを攻撃した。 武者の放った矢がヤックルの足に命中して負傷させているが、逆上した 呪いの「赤黒い痣」が広がる描写がある アシタカの反撃で殆どが討ち取られた。 一種ので、豊かな森林に住む。 白い半透明の体を持ち、顔を動かすとカラカラという音が鳴る。 怪我人をおんぶしているアシタカの真似をしたり、森の中で迷ったアシタカを導くなど、特に人間に敵意を持っている訳ではないらしい。 キャラクターデザインは、森に何かいるのが見えるというスタッフの手によるもの。 シシ神が首を飛ばされて死の呪いとなったデイタラボッチの黒い液体に命を吸われ死んで落下した個体も多いが、最後に生き残った1体が顔を振り回してカラカラと音を鳴らす。 野武士 アサノ軍とは直接関係はないが、アサノに唆されてタタラ場の鉄を狙い攻撃を仕掛ける噛ませ犬にされ、エボシ率いる石火矢衆に大敗する。 石火矢の弾丸で手足を切断される雑兵や鎧ごと破壊される騎馬武者などがいた。 石火矢衆も矢を受けて倒れるなど、完全に一方的な戦ではなかった。 地侍であり、鎧のみを身につけた軽装備の雑兵などがほとんどを占める。 アサノはエボシの戦力の強さを見て使者を派遣したが、エボシの指示でトキを中心とする女衆が石火矢を撃ちかけて使者を追い払っており、アサノ側が激怒しタタラ場に総攻撃を仕掛けてくるきっかけになる。 宮崎監督による解題 [ ] 主題 [ ] 宮崎監督曰く、この映画にはやりたくて溜めてきた素材が三つも四つも入っている。 絵コンテを読むと、エンターテイメント作品には通常不向きと思われる現代の厳しい課題が詰め込まれている。 が整理すると、五つになる。 子供たちの心の空洞• 至る所に起こる差別• 人間と自然との関わり• 人間の憎悪の増幅作用、殺戮へ突き進む闘争本能• との対立 問題が沢山入りすぎていてハラハラしますねと浦谷が水を向けると、監督は以下の通り語った。 「解決不能な問題ですよね。 今までの映画は、解決可能な小課題を作って、取り合えず今日はそれを超えたと、それをひとつのセオリーにしてきたんですけどね。 それが映画の枠内だと。 それでやると、現代で僕らがぶつかっている問題とは拮抗しないという結論が出たんじゃないかなぁ」。 主人公の動機 [ ] 監督の論では、日本の通俗アニメーションを腐らせている一つに「動機の喪失」がある。 例えば、監督が以前民話「」(文:、)に触発されて描いた『』である。 ヤックルに乗る主人公シュナは、自国を貧困から救う穀物の種、「金色の種」を求め旅に出る。 この旅の動機は崇高だが、貧乏というリアリティが無い中では「胡散臭い」ものでしかない。 アシタカの旅には、観客が共感できる動機が必要だった。 即ち「理不尽にも傷付けられ、呪われたと自覚した少年が、その呪いを癒す鍵を探して旅をする」ことである。 更には、アシタカは自発的にではなく、村を追い出されてやむなく旅に出る。 それは受難のヒーローというより、ヒーローであることを裏切り続けるアンチヒーローである。 そしてヒロインのサンもまた、傷付いた自分を醜いと思っているアンチヒロインである。 同じ物語を辿りながら、通常の主役であることを徹底的に裏返しにしていく。 観客の予想を破壊すること [ ] 物語の図式は森との対立。 乙事主たちとエボシたちが激突する、ここまでは観客の予想図式と一致する。 普通の映画ではこれで全部辻褄が合う、ただの宿命の対決となる。 ここで予想を破壊する、宿命も何も無い、もっと暴力的な図式を提示する。 乙事主たちとエボシたちがぶつかる、そのエボシたちの後ろから侍たちの大きな勢力が加わっている。 更にそれが進行した形態として、侍たちが突出してエボシたちを飲み込み、乙事主たちと直接ぶつかっている図が描かれる。 アシタカが事態に気が付いたときには、既にこの図式のようになっており、何故こんなことが起こったのだろう、という形で事態が転化していく。 それはその中で翻弄されるアシタカの心境であり、それは観客と同じ次元になる。 事件に気が付き、発生した順番の逆から出会って行くのが現代であるためである。 過去の作品の否定 [ ] 宮崎駿には、過去の自分の作品を一度徹底的に否定しなければ、本音で語ることはできないという思いが強烈にあった。 作品への世間の期待について話が及ぶと、宮崎は(例えば自然保護に熱心なジブリなどの)期待に応えようとしてはいけない、一回期待を持つと、その期待を変えようとしないと返答した。 「生きる」というイメージ [ ] 宮崎駿は以下の通り述べている。 百億の人口がねぇ、二億になったって別に滅亡じゃないですからね。 そういう意味だったら、世界中の野獣は、もう滅亡、絶滅していますよね(笑)。 そうですよ。 元は百匹いたのに、今は二匹しかいないなんて生きもの一杯いますからね。 そういう目に、今度人類が遭うんでしょ、きっと。 でもそれは滅亡と違いますね。 僕等の運命ってのは、多分、で、帰ってきた爺さんや婆さん達が、あそこでキノコ拾って食ったりね、その『汚染してるんだよ』って言いながら、やっぱり平気でジャガイモ食ってるようにして生きていくだんろうなっていうね…まぁ、その位のことしか言えないですよね。 それでも結構楽しく生きようとするんじゃないかぁっていうね、どうも人間ってのは、その位のもんだぞって感じがね… — 宮崎駿、『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』、136-137頁。 若者へのメッセージ [ ] 監督が言う「我々が直面している最大の課題」は、主人公アシタカの設定に集約されているという。 今この世の中に生きている若者は、いわれのない、不条理な、肉体的にも精神的な意味も含めてを引いてしまった人間達である。 それは東アジア、アメリカやヨーロッパ、アフリカでも共通の運命である。 その理由は、一人の人間が感じられる悲劇が、ローマ時代であろうと鎌倉時代であろうと同じ故である。 人口が五百万人しかいなかった鎌倉時代の日本は、現代から見れば山紫水明、遥かに美しい所が多数存在したが、人間が悲惨の極みであったため、のような宗教が生まれてきた。 破局の規模が大きいから悲劇が大きいというのは嘘で、一つの村が滅びることが、その人間にとっては全世界が滅びることに等しい、そういう意味を持った時代がある。 その意味では人間が感じられる絶望も、その苦痛も量は等しい。 恐らくそれは、歴史の様々な場所で感じ取られてきた。 「ただ何となくスケールが大きいからね、こりゃ本当のドン詰まりと思っているだけで。 でもそれが本当にドン詰まりなのかというと、そうは簡単に行かないことも、歴史は証明してるから」。 浦谷年良はこの発言を以下のようにまとめている。 現代の若者達は、意識の奥でみんなババを引いてしまったと感じている。 自分は悪くないのに、何故か傷付けられていると感じている。 マイナスの磁場のようなものを抱えている。 その「心の空洞」に向かって「明るく元気に生きよう」「貧しさから抜け出して豊かになろう」と言っても通じない。 こうした絶望、閉塞感を大きな歴史認識の中で捉え、考え直すことで「不条理な運命の中で生きる」ことを模索し、提示していく。 なお監督は、物語のその後について、「アシタカとサンは、その後も良い関係を続けていく」、「アシタカは引き裂かれ、傷だらけになりながらも、サンやタタラ場のために努力し、それを曲げずに生きていく人物である」と語っている。 舞台設定 [ ] 舞台のモデルとなったの森林 世界観 [ ] 本作はの示唆を受けた世界観を舞台としている。 参考とされたのはの『栽培植物と農耕の起源』であり、日本文化の基底が稲や稲作農民ではないことを明らかにする同書の内容が製作に大きく影響しているとされる。 本作では稲作農民に代表される平地の「定住民」とは全く別の生活圏を持つ「遍歴民(山民・海民・民など)」が多く取り上げられる。 『もののけ姫』は、遍歴民の世界で展開される物語である。 叶精二によれば本作は日本映画で中世史をアウトサイダーの側から描くという、「時代劇の革命」を意図するものであり 、は本作を「ずいぶん勉強した上でつくられている」と評している。 宮崎監督は作家の司馬遼太郎と対談した時、司馬が新聞記者時代に京都の岩屋不動志明院に宿泊した際、奇っ怪な体験をした話しを聞き『もののけ姫』の着想になったといわれている。 エミシの村 [ ] かつての支配に抵抗し、追われた人々。 祭事の衣装や東北地方のに似たアシタカの衣装、彼の使う「雅な椀」、娘の装束など、の文化にや北タイの焼き畑圏など照葉樹林文化圏の物が混ざった文化を形成している。 を宮崎駿は、大和政権とその支配下に入った稲作農耕民から追われて本州北部の山中に隠れ住んだ、焼畑・狩猟・採集・工芸を生業とする原日本人の残党と解釈している。 村をまとめているのは、占いで物事を決めていくという女性(ヒイ様)である。 神社の中で拝んでいるのは岩倉(岩の壁)、御神体である岩の塊である。 カヤが抜いた、刀身が直線的で先が尖っている刀はという。 柄の方には輪が付いている。 東日本各地から出土しており、東北地方を中心に8世紀ほどまで作られていた。 生活雑器だが武器にもなり、と戦ったエミシの軍勢はそのような刀を持っていたと考えられている。 また、未婚の女性が守り刀を男性に渡すという行為は、『』にもみられるように求婚の証であり、カヤが決して戻ってくることのないアシタカに守り刀を渡すという行為は、カヤが一生未婚のまま人生を全うすることを暗示しているとする指摘がある。 石火矢 [ ] 劇中のは火銃が発想の源。 中国、ヨーロッパのハンドカノンをエボシが改良した石火矢は少し火縄銃のようになっているが、まだ付け火のような棒で火を付けており、火縄銃のようにはいかない。 火縄はを木綿のに染み込ませてあるもので、火を点けると灯っていき、ゆっくり燃える。 それを瞬間的に吹くと、また少し火勢が強くなる。 よって火縄銃を撃つ時は、構えてから息を急に吹き掛け、火縄を挟み込み、火蓋を開けて引き金を引くと火縄挟みが落ち、弾が発射される。 その段階に到達していないため、後装になっている。 弾と火薬が入っているものをそのまま入れて撃つことにより、先から弾を込めなくて済むようになっている。 後装は古い大砲にあったものである。 弾丸が入った部品に火薬を入れ、砲身に入れる。 そして木の楔を打ち込み、点火して撃ち、楔を抜いてこれを引き出し、次弾を装填する。 非人 [ ] はではの衣を着た人々で、一般平民とは区別されている。 ・とも呼ばれる。 非人に関連して浦谷年良は、宮崎駿が尊敬する作家、の『定家明月記私抄』を引用している。 「元来天皇家というものが、これらの、、舞人、、さらには武芸を事とする武人などの民とともに、各種の職人、広い意味での宗教人など、いわば非農業民、それを別の言葉で言いかえるとして、『遊手浮食』の徒、『無縁の輩』などの『道々の輩』、すなわちこれら路上の遍歴民を統轄し保障をする存在であったことを確認しておきたい」。 着物 [ ] 製作時にはヤックルの走りの分解図、カヤ達エミシの村の娘達の衣装、アシタカが扱うエミシの矢の形(鏃はで)など、細かい指定が大量に書かれていた。 中でも特徴的なのが「帯の位置」である。 現代では、古来の着物の常識が失われているため帯の位置は高くなっているが、本来はへそ下であると注意書きがされていた。 一方、その下には「これは『』の以来の結び方、アシタカだけに使う」とあった。 これは主人公アシタカの「現代の若者性」「若さと未熟さ」といった暗示であるのか、と意味を問われた宮崎駿は「三船のあれは、子供だってことでしょ」と答えている。 市場を行き交う人々や、特に、成熟した大人として描かれるジコ坊の帯の位置は低い。 たたら場とエボシ御前 [ ] エボシの場の構成員に対する態度は大きく2つに分かれる。 戦争で人狩りにあって売られた女たちと、社会から差別を受けてきた癩者(ハンセン病患者)とみられる病者に対しては温かい手を差し伸べているのに対し、病者以外の男たちに対しては猪神やその配下の猪たちに対するおとりとして利用されて猪ともども吹き飛ばされて命を失うことを承知の上でシシ神退治に動員し、その最後の様子を眺めているなど、極めて冷淡な態度を取っている。 だが、エボシは女たちに対しても重大な事実を隠している。 それは、売られた鉄が武器に加工されて侍の手に渡り、戦争に用いられ、その結果、歴史学者のが「奴隷狩り」と称した現象が引き起こされることである。 つまり、女たちはエボシが作らせた鉄で作られた武器によって、奴隷として売られてエボシの下にやってきたのである。 当然、エボシもこうした矛盾がいつかたたら場を崩壊させかねないことを認識していた。 歴史学者のはエボシがアシタカに告げた「私の秘密」の正体を社会的弱者である病者たちに新しい石火矢を作らせて同じ弱者である女性たちに持たせて侍の鎧を打ち抜かせていくことで侍の力を奪い、鉄が侍のために使われるシステムを打破することで矛盾を解消し、更に労働によって得られた果実の分配のあり方を変えていくという「国崩し」の実現を図ることとして捉え、森(=シシ神)との戦いはこの目的の中においては局所的なことに過ぎないとする。 その一方で、エボシの出現はサンの位置づけを根本的に変えた。 元々サンは山の神 この場合はモロの君 へ生贄として捧げられたものである。 しかしエボシが現れ人々が山の神に対抗しうる力を持ったことで、人々は神の力の前にただひれ伏す存在ではなくなった。 それによりサンは宙ぶらりんの立場に追い込まれ、人でも神でもない、「もののけ」として生きざるをえなくなった。 製作 [ ] 映像 [ ] 作画枚数 これまで宮崎駿の監督した長編アニメは、おおよそ5万から7万枚ほどの作画枚数で製作されてきたが、本作では14万枚以上もの枚数が使用された。 宮崎は「ジブリを使いつぶす」ほどの覚悟で桁外れの労力と物量を本作に投入したというが、以降の『』(約11. 2万枚)や『』(約14. 8万枚)、『』(約17万枚)もほぼ同規模かそれ以上の枚数であり、スタジオジブリの制作体制そのものを刷新する結果となった。 デジタル体制への移行 スタジオジブリ最後のと絵の具を使った作品となった。 この作品でもサンの顔に付いた血糊やデイダラボッチを3DCGで作った他画面の多重合成も行われ、製作スケジュールの追い込みでデジタル彩色も一部使用されていたが、以降のジブリ作品は線画をコンピュータに取り込み、デジタル彩色の手法を用いるフルデジタル処理で製作されるようになった。 また、タタリ神やデイダラボッチの動く触手も、3DCGのパーティクルによる流体シミュレーション機能を応用して制作されている。 ラストの植物が芽吹き再生していくシーンでも3DCGによる制作が行われており、こうした3DCG利用を積極的に利用した最初のジブリ作品となった。 美術イメージ 美術担当のは、アシタカが住むエミシの村を描くために1995年にの取材に訪れている。 青森県の、、、などを写真を撮ったり絵を描いたりしながら歩き回り、その時のイメージを作品にちりばめている。 テーマ [ ] 「神殺し」のモチーフ 作中で描かれる「神殺し」のモチーフは、小説『』からの影響であるが、過去に作者のからアニメ化の要求があった際は、映像化するほど惹かれないとして断っている。 本作を観た梅原は、似ているようで別物だと語っている。 時代考証 時代考証にはいくつか誤りがあるが、一つは当時の女性の髪型はポニーテールであったのに、本作では普通の髪型になっているなどとに指摘されている。 宮崎は完璧さは求めていないと話している。 ハンセン病 宮崎はこの作品を通してハンセン病への考えを表現した。 宣伝 [ ] タイトル名 鈴木プロデューサーのもとに宮崎が訪ねてきて「鈴木さん、タイトル変えようと思うんだけど、『アシタカ𦻙記』 でいこう」ということになり話はそこで終了した。 鈴木敏夫プロデューサーは直感的に「もののけ姫」というタイトルが気に入っていたので、金曜ロードショー内で放送した製作告知CMの初報を「もののけ姫」のタイトルで強行して制作した。 しばらくしてことの次第を聞き付けた宮崎はさらに食い下がることはなかった。 キャッチコピー 映画公開時のキャッチコピー「生きろ」は、によるもの。 完成までには糸井とプロデューサーの間で激しいやり取りがあり、没になったコピー案は50本近くあった。 主な候補に「おそろしいか、愛しいか。 」「だいじなものは、ありますか。 」「おまえは、まぶしい。 」「昔々は、今の今。 」「死ぬのと、生きるの、どっちが好きだ。 」「死ぬなっ。 」などがある。 音楽 [ ] 音楽を担当したは、映画公開の2年前にと打ち合わせを行った際、映画の内容よりも今なぜこの作品を作らなければならないかという覚悟の話をされたという。 宮崎の熱意に圧倒された久石は本作の音楽をで書くことに決め、管弦楽はが担当した。 これまでの宮崎作品では臨時編成のオーケストラによる演奏だったが、本作で初めて常設のプロオーケストラが起用された。 久石は本作のためにのや、のなどを使用したデモを制作し、そこから更に本編のためのオーケストラスコアを書き上げた。 音楽はが主体だが、が全編で多用されているほか、、、などの和楽器や、南米のが使用されている。 久石は本作を次作の『』と共に、「スタンダードなオーケストラにはない要素を導入しながら、いかに新しいサウンドを生み出していくか、というチャレンジを試みていた時期ですね」と述懐している。 冒頭の「ドーン」という音は、のとエスニック系の、シティ・フィルの大太鼓、などをミックスした合成音で、映画館では椅子が振動する効果が出るほど一つの音に対してもこだわって作られた。 久石は「今回は悔いが無くなるまで最後まで仕上げたと思ってます。 ひきずるモノがまったくありません」「この仕事、終わってほしくない。 でも寝てないから早く終われとか色々思いました(笑)」と述べている。 これまでの宮崎作品のエンドロールは全て絵を入れていたが、本作では文字だけになっている。 そこに主題歌とメインテーマが流れるが、宮崎は「これはやっぱりきちんと聴くに値する音楽になったなと思います」「その音楽だけはそのまま座って聴いていて欲しい」と語り、本作の音楽について「自分達の作品に最もふさわしい才能を探したあげく、結局、いつも久石さんにたどり着くという繰り返しだった」と述べている。 興行と賞歴 [ ] 193億円、観客動員数1420万人を記録し、当時の日本映画の歴代興行収入第1位となった。 日本国内におけるDVDとVHSを合わせたビデオグラム出荷本数は2007年5月時点で440万本。 に『』で初のTV放送がされ関東地区で35. 香港での興行収入は654万香港ドル 、全米では1000万ドル。 第1回大賞• 第52回日本映画大賞・• 第21回最優秀作品賞• 朝日デジタルエンターテイメント大賞・シアター部門賞• アニメーション神戸'97・部門賞(演出部門)、部門賞(デジタル技術部門)、アワード(劇場映画の部)• マルチメディアグランプリ'97・MMCA特別賞• 第15回・最優秀金賞、特別功労大賞• ・特別賞• ・監督賞• 第39回毎日芸術賞・映像・映画部門• エランドール賞・特別賞• 日本映画ペンクラブ・97年度ベスト5日本映画部門1位• ・特別賞• おおさか映画祭・特別賞• ・最優秀監督賞• 映画鑑賞団体全国連絡会議・日本映画作品賞• 文化庁優秀映画・優秀映画作品賞• 読売映画・演劇広告賞 優秀賞• 日経優秀製品・サービス賞、最優秀賞、日本経済新聞賞• ・作曲賞、アルバム企画賞(サントラ)• アニメ部門選出 2020年、新型コロナ感染症の影響後に再上映した。 6月27日-28日、7月4日-5日、7月11日-12日で連続して2位であった。 ディズニーとの提携 [ ] 本作はスタジオジブリが1996年に(WDC)並びに日本法人の(WDCJ)の間で国内でのビデオソフト(「」)発売および海外でのジブリ作品配給に関わる事業提携を締結したことに伴い、WDC(「ディズニー」表記)から初めて出資を受けた作品である。 このため、『』までの「発売元:・販売元:」ではなく、WDCJのビデオソフト部門であるブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(のちの)になった。 ただし、版のビデオソフトについては徳間からの発売・販売となった。 こうして本作のビデオは既に『』などで日本市場に大きな勢力を築いていたの流通ルートで販売された。 また、アジアを除く全世界でWDC子会社のが配給し、からビデオとDVDが発売された。 本作以降、ジブリはWDC並びにWDCJと親密になっていく。 は、日本()では「一般」に指定されているが、アメリカ()では「」に指定された。 英語版のナレーションには同じくウォルト・ディズニー製作のアニメ『』でナレーションを務めていたが起用された。 声の出演 [ ] キャラクター 日本語版 英語版 アシタカ サン エボシ御前 ジコ坊 モロの君 乙事主 カヤ 石田ゆり子 甲六 ジョン・デミータ ゴンザ トキ 山犬 (不明) ヒイ様 タタリ神 (不明) 牛飼いの長 (不明) 病者の長 (不明) キヨ (不明) ジバシリ (不明) 牛飼い (不明) たたら場の女 サリー・リン デニース・ポワリエ (歌声) エミシの少女A 島本須美 (不明) エミシの少女B ナレーター キース・デイヴィッド その他 ルイス・アークェット アレックス・フェルナンデス ジャック・フレッチャー パット・フラリー ジョン・ホステッター ジョン・ラフター・リー マッタ・マッケンジー マイケル・マクシェーン マーニー・モジマン アダム・ポール デヴィッド・ラズナー スタッフ [ ]• 原作・脚本・監督 -• 作画監督 - 、、• 原画 - 、、森友典子、、、遠藤正明、清水洋、栗田務、、大谷敦子、、芳尾英明、、山田憲一、、、、松瀬勝、桑名郁朗、松尾真理子、、野田武広、杉野佐秩子、、• 動画チェック - 、中村勝利、斎藤昌哉、、小野田和由• 動画 - 手島晶子、大村まゆみ、北島由美子、真野鈴子、坂野方子、柴田和子、倉田美鈴、沢九里、鈴木麻紀子、鈴木まり子、菊地華、鶴岡耕次郎、田村篤、野口美律、藤井香織、、矢地久子、山田珠美、川田学、、アレキサンドラ・ワエラウフ、ダビット・エンシスナ、東誠子、山浦由加里、西戸スミエ、横田喜代子、富沢恵子、コマサ、土岐弥生、柴田絵理子、長嶋陽子、椎名律子、岩柳恵美子、藤森まや、近藤梨恵、常木志伸、西河広美、渡辺恵子、谷平久美子、矢野守彦、古谷浩美、安達昌彦、山本まゆみ、中山大介、田辺正恵、新留理恵、松下敦子、太田久美子、清水理枝、林良恵、小林幸子、手塚寛子、原口ちはる• 飯盛夏子、渡邊奈津子、矢沢真由、東樹葉子、中路景子、毛利志乃舞、小高雅子、上田峰子、、安留博子、富野昌江、式部美代子、与沢桂子、平井和子、藤倉雅代、宇田明彦• 作画協力 - アニメトロトロ、、、、グループどんぐり• 美術 - 、、、、• 背景 - 、春日井直美、長縄恭子、斉藤久恵、伊奈淳子、平原さやか、荒井貞幸、太田清美、谷口淳一、長田晶子、佐々木洋明、• 特殊美術 - 福留嘉一• 特殊効果 - 、橋爪朋二、村上正博、榊原豊彦、谷口久美子• CG - 、、、井上雅史• 色彩設計 -• 色指定 - 井関真代、森奈緒美、守屋加奈子• 仕上 - 小野暁子、熱田尚美、鍋田富美子、野村雪絵、山田和子、鈴木栄一、片山由里子• スタジオキリー• 岩切当志子、高橋直美、宮本智恵美、清水まり子、森沢千代美、渡辺信子、平林和広、谷島香、石川香織、土屋裕美、工藤百合子、原井智恵、児玉淳、浦山和恵、平良ふみ子、泰野君子、石黒静、吉田美夜子、高木小百合、後藤恵子、大隈昌子、佐々木恵子、角田和子、中釜かおる トレスマシン 柚木脇達己• IMスタジオ• 伊勢田美代子、尾崎美人、鉢田恒、浅井より子、西村豊美、森田薫、安味香織、大内一美、木村裕美子、天満友美、佐藤けい子、赤沼茂子、前原絹代、船崎幸子、板原多恵、小林一夫• トレーススタジオM• 安斉直美、相原明子、杉山和歌子、金内順子、醍起玲子、本橋恵美子、松尾めぐみ、大城ひろ子• 黒沢和子、奥西紀代美、坂野園江、入江三瓶子、五十嵐令子、古屋純子、藤橋清美、戸塚友子• テレコム・アニメーションフィルム• 山本智子、人位万里、長崎さゆり、太田真弥子、石川恵里子、西脇好美、宮川淳子、長岡純子• 、アニメハウス、はだしぷろ、ピーコック、ムッシュオニオン、スタジオOZ、スタジオアド• デジタルペイント:石井裕章、佐藤麻希子、杉野亮、服部圭一郎• 高橋加奈子、石堂めぐみ、村田ゆき、下江由美子、恒田由紀子• 録音演出 -• 録音演出助手 - 真山恵衣• 整音 - 井上秀司• 編集 -• 編集助手 - 水田経子、内田恵、田村眞子• 撮影監督 -• 撮影 - 藪田順二、高橋わたる、古城環• 音楽・ピアノ -• 指揮 -• 演奏 -• 音楽制作 - ワンダーシティ、スタジオジブリ• 録音 - 東京テレビセンター• 音響制作 -• 録音スタジオ(音楽) - ワンダーステーション、• 録音スタジオ(台詞) - MITスタジオ、アバコクリエイティブスタジオ• 音響効果 -• 効果助手 - 石野貴久• 効果協力 - VOX 猪飼和彦、渡辺基、時田滋• 効果制作 -• 監督助手 - 伊藤裕之• 演出助手 - 有冨興二、石曽根正勝• 制作担当 - 川端俊之• 制作進行 - 大塚浩二、居村健治、鈴木健一郎• 制作デスク - 田中千義、西炯共昭• プロデューサー -• 制作 -• 英語版演出 - ジャック・フレッチャー• 英語版脚本 -• 5万枚出荷(2004年発売の再発CD) 『』 50万枚出荷(1997年7月2日発売のCD) 『交響組曲』 8万枚出荷(1998年7月8日発売のCD) 主題歌『もののけ姫』 60万枚出荷(1997年発売のシングルCD) 0. 5万枚出荷(2004年発売の再発シングルCD) VHS(1998年9月発売) 400万本出荷 2005年3月現在 DVD(2001年11月発売、本編+映像特典の3枚組) 50万枚出荷 2005年3月現在 映画パンフレット 262万部 180万部以上 4巻計 『THE ART OF The Princess MONONOKE もののけ姫』 10万部近く 定価2800円 テレビ放送の視聴率 [ ] 回数 放送日 視聴率 1 1999年 01月22日(金) 35. また、2001年には制作過程を描いたメイキングDVD『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』(ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント)が発売された。 舞台化 [ ] イギリスの若手劇団「Whole Hog Theatre」 ホール・ホグ・シアター によって舞台化される。 劇団が宮崎監督の友人であるを通してオファーしたところ、劇団が作成したテスト映像を見た宮崎監督がGOサインを出したという。 宮崎監督が自作の舞台化を許諾するのはこれが初。 イギリスではロンドンにあるニュージオラマシアターにて上演。 2013年4月2日-6日のチケットは発売から72時間で、6月18日-29日の再演は4時間半で売り切れた。 日本では2013年4月29日-5月6日、渋谷アイアシアタートーキョーにて上演される。 キャストの中には、唯一の日本人、ニューヨークを拠点に活動中の女優・ダンサー・シンガーのYuriko Miyake 三宅由利子 が含まれている。 作中のテーマソング「もののけ姫」も彼女が歌っている。 人間以外のキャラクターは古着・ビニールやペットボトルなどの廃材を使用して作られたパペットで表現していた。 スタッフ [ ]• 構成・演出:• 原作:「もののけ姫」• オリジナル音楽:• 舞台版編曲:• 1997年8月1日. 高畑勲・宮崎駿作品研究所. 2014年7月5日閲覧。 初出は『 Vol. 2「もののけ姫」を読み解く』(、1997年8月)• 浦谷年良『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』徳間書店、1998年。 宮崎駿『もののけ姫-スタジオジブリ絵コンテ全集』徳間書店、スタジオジブリ事業本部、2002年。 宮崎駿『風の帰る場所-ナウシカから千尋までの軌跡』ロッキング・オン、2002年。 新版・文春ジブリ文庫(2013年11月)• 『「忘れられた日本人」を読む』〈岩波セミナーブックス〉、2003年。 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート、2006年。 ・・宮崎駿『時代の風音』 〈〉、1997年3月• 宮崎駿 『出発点 1979〜1996』(徳間書店、1996年)。 エッセイ・発言集• 宮崎駿 『折り返し点 1997〜2008』 (、2008年)。 エッセイ・発言集• スタジオジブリ編 『もののけ姫 ジブリの教科書10』 〈文春ジブリ文庫〉、2015年7月 関連商品 [ ] 作品本編に関するもの [ ] 映像ソフト• もののけ姫 - (1998年6月26日)• もののけ姫 - (1998年6月26日)• 「もののけ姫」はこうして生まれた VHS - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(1998年6月26日)• もののけ姫 DVD - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2001年11月21日)• 「もののけ姫」はこうして生まれた DVD - ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント(2001年11月21日)• DVD(宮崎駿監督作品集) - (2014年7月2日)• もののけ姫 Blu-ray Disc - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2013年12月4日)• Blu-ray Disc(宮崎駿監督作品集) - ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン(2014年7月2日) 出版• もののけ姫(宮崎駿・絵、徳間書店、1993年12月31日)• THE ART OF The Princess MONONOKE もののけ姫(スタジオジブリ責任編集、徳間書店、1997年8月20日)• もののけ姫 上(徳間アニメ絵本)(徳間書店、1997年9月30日)• もののけ姫 下(徳間アニメ絵本)(1997年9月30日)• もののけ姫(ジス・イズ・アニメーション)(小学館、1997年10月1日)• もののけ姫 ロマンアルバム(編集部編、徳間書店、1997年11月1日)• 「もののけ姫」の秘密 遥かなる縄文の風景(批評社、1998年10月10日)• 「もののけ姫」はこうして生まれた。 (徳間書店、1998年10月30日)• 『もののけ姫』から『ホーホケキョ となりの山田くん』へ テーマは「生きろ。 」から「適当」へ…!? (スタジオジブリ・徳間書店、1999年7月31日)• ROMAN ALBUM GHIBLI How did America view PRINCESS MONONOKE? (スタジオジブリ・徳間書店、2000年5月20日)• もののけ姫(スタジオジブリ絵コンテ全集11)(スタジオジブリ・徳間書店、2002年1月28日)• もののけ姫(シネマ・コミック10)(文藝春秋・文春ジブリ文庫、2018年12月) 音楽• (再発版2004年10月27日、オリジナル1997年6月25日)• 徳間ジャパンコミュニケーションズ(1997年7月2日)• 交響組曲 もののけ姫 徳間ジャパンコミュニケーションズ(1998年7月8日) 注釈 [ ]• 2020-06-18. 2020年6月18日閲覧。 2014年10月5日閲覧。 差別的に村から追いやられているが、表現を抑えているため、冒険へ旅立ったのだと勘違いされたという。 宮﨑駿『折り返し点』p. 134• 放った矢で敵兵の腕や首を吹き飛ばす、太刀をねじ曲げる、大量出血の銃創を負いながらもサンを抱えた状態で歩き続ける、など。 『もののけ姫』のパンフレットに「アシタカの許嫁」と書かれており、宮崎駿監督自身も2001年に発売されたDVD『「もののけ姫」はこうして生まれた』の中で「一族が選んだ許嫁」と語っている。 『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』、352頁。 宮崎駿『風の帰る場所-ナウシカから千尋までの軌跡』ロッキング・オン、2002年。 『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』、389頁。 宮﨑駿『折り返し点』p. 363• 宮﨑駿『折り返し点』、網野善彦との対談• 宮﨑駿『折り返し点』、網野善彦との対談• 宮崎駿『折り返し点』(「もののけ姫」1997)• 』、49-50頁。 』、45-46頁。 』、76-77頁。 』、53-54頁。 『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』、52-53頁。 宮崎, 駿 2001年. Interview to Hayao Miyazaki. インタビュー 、記録媒体には未収録• 浦谷年良『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』徳間書店、1998年、81頁。 叶精二 2000年3月16日. 高畑勲・宮崎駿作品研究所. 2012年7月23日時点の [ ]よりアーカイブ。 2011年9月7日閲覧。 網野善彦『「忘れられた日本人」を読む』、2003年、31-34頁。 叶精二 2000年3月16日. 高畑勲・宮崎駿作品研究所. 2012年7月24日時点の [ ]よりアーカイブ。 2010年11月25日閲覧。 『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』、352-353頁。 市沢「映画『もののけ姫』分析」、2011年、P418• 『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』、275-278頁。 『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』、315-316頁。 『「もののけ姫」はこうして生まれた。 』、27-28頁。 市沢「映画『もののけ姫』分析」、2011年、p. 418-419,435-436• 市沢哲「映画『もののけ姫』分析」、2004年、p. 94-109• 市沢哲「映画『もののけ姫』分析」、2004年、p94-109• 宮﨑駿『折り返し点』、京都精華大学での網野善彦と梅原との対談• 『折り返し点』、p. 116• 2016年1月28日, at the. ヤフーニュース• ゲツヨル! テレビ番組. 日本テレビ放送網.. 2007年6月4日• 岩切徹『人のかたち ノンフィクション短編20』平凡社、2015年4月。 p198。 『「もののけ姫」を読み解く』ふゅーじょんぷろだくと、1997年、p120。 久石譲『WORKS IV』ライナーノーツ• 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート、2006年、208頁。 『KB SPECiAL 1997年9月号』立東社、1997年、p42-43。 久石譲『感動をつくれますか』角川書店、2006年、p141。 『久石譲in武道館 パンフレット』p15。 『KB SPECiAL 1997年9月号』立東社、1997年、p. 『「もののけ姫」を読み解く』ふゅーじょんぷろだくと、1997年、p121。 NHK「トップランナー」制作班編著『トップランナー VOL. 7』KTC中央出版、1998年、p. 19-20• 久石譲『WORKS I』ライナーノーツ• 中村均 2007年5月23日. 日経ビジネスオンライン. 2020年7月13日• 『』1998年4月22日付、3頁。 2014年3月29日閲覧。 MANTAN WEB. 2018年10月29日. 2018年10月29日閲覧。 2013年3月8日時点の [ ]よりアーカイブ。 2013年3月5日閲覧。 2013年5月2日閲覧。 外部リンク [ ]• スタジオジブリ. 2006年4月17日閲覧。 - (2004年11月19日放送分)• - 金曜ロードショー(2006年5月12日放送分)• - 金曜ロードショー(2010年1月8日放送分)• - 金曜ロードショー(2011年7月1日放送分)• - 金曜ロードSHOW! (2014年7月4日放送分)• - (英語)• - (英語)•

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現代のもののけ姫Maco(渋谷真子)の車椅子の原因は?!年齢や出身プロフィール!

現代のもののけ姫 原因

この記事の内容• 中嶋涼子さんのプロフィール 彼女は1986年7月16日生まれ、現在東京にお住まいの33歳です。 車椅子生活になったのは9歳の時。 これを彼女は、明るく キャリア24年の「プロ」だと話されていて、なんとも清々しい。 前を向いている人は強い、と感じます。 けれど最初から強かったのではなく、たくさん努力して、たくさんの事を乗り越えて来られたのでしょう。 それは彼女の歩んだ道でも伺えます。 出身高校・大学はどこ? 東京・調布市の名門、 私立桐朋女子高等学校を卒業。 ここは 9割以上が4年制大学へ進むという、優秀な中高一貫高校です。 その後なんとアメリカの カリフォルニア大学に留学されており、ここの 映画芸術学科学部映画評論科に在籍。 卒業後の2012年には、映画製作を本格的に学べる 専門学校(インターナショナルスクールオブモーションピクチャーズ)に入学されています。 これには理由があって、車椅子生活になった頃はまだ子供だったので、人に見られるのが嫌で 引きこもっていたそうですが、友達に誘われた映画にハマったんだそうです。 観たのはあの有名な 映画「タイタニック」。 これに大感動して、最初は車椅子で映画館に入場するのをためらっていたそうですが、「もう一度観たい!」と自分から外に出た、初めてのきっかけになった、とおっしゃっています。 ただ、 入館拒否された事もあったとか。 驚いた事に「車椅子の人は家で観ればいいんですよ」とのたもうた映画館もあったそうで、これには私もマジ切れしそうになりましたよ! どこの映画館だ!と思っていたら、そこはすでに潰れてしまったそうです。 結局彼女は、東京のあちこちの映画館で、 計11回も観た んですって! 今でも、この映画に感謝しておられるそうです。 自分の「好き」や「感動」を動機に動ける、すごく純粋な人、という印象を受けました。 スポンサードサーチ 写真:発病前の涼子さん。 とても活発だった小学生時代、中嶋涼子さんはなかなかの おてんばだったとか。 これは想像できますね。 ある日学校の休み時間中に鉄棒で遊んでいて、突然、足に力が入らなくなったそうです。 保健室で休んで、授業に出ようとしたところ、時折激痛が走ったとか。 それで病院に運ばれて、 そのまま1年間入院されたそうですが、原因ははっきりとわからなかったらしいんです。 ただ、原因として考えられる事は2つあるそうです。 一つ目は、発病1週間前にひいた風邪の菌が、脊髄に入ったのが原因ではないか、というもの。 これは驚きました、風邪の菌って怖いものだったんですね。 二つ目はもっと衝撃で、鉄棒から下りた時の反動、とか…。 これは実例があるそうで、赤ちゃんを高い高いしていて、キャッチされた時の反動で、その赤ちゃんが歩けなくなった、という事もあるのだそうです。 彼女の場合も、鉄棒から下りた時、もしかしたら着地の反動でどこか痛めたのかもしれない、と。 病名は、 横断性脊髄炎。 おへそから下の感覚がないそうです。 これまでの経歴は? 映画「タイタニック」を観て、彼女は 「人に何かを与えられるようになりたい」と、映画関係の仕事を目指します。 誰も信じてくれなかったそうですが、彼女の本気度は高かった。 高校卒業後、単身渡米され、そこで 8年間学ばれました。 英語の発音が、なんというか、ネイティブ感満載。 その後、日本に帰って念願の映画製作の仕事を獲得されたものの、厳しい現実に直面されました。 電車通勤です。 東京の、朝のラッシュの壮絶さをご存じの方なら想像つくかと思いますが、場所によっては始発でも座席に座れません。 吊り革を持っていられればいい方で、混み出すと全身、不特定多数と密着したまま。 これが意外にキツイんですよね。 そんな中で、彼女がどんなに小さく身を縮めていても、車椅子分のスペースはどうしようもなく、蹴られたり、「邪魔!」「ふざけんなよ」などの言葉をぶつけられる事が多かったそうです。 気を使いながら電車に揺られていれば、それが毎日なら、精神的にもダメージを受ける事は想像に難くないですよね…。 この内容を語る涼子さんの動画はこちら! スポンサードサーチ 今はどんな活動をしているの? 日本でこうやって車椅子で生活するのってつらいな、と思っていたところ、Facebookで障がいのある人限定の、30歳以上の大人女子会のような集まりに誘われて、そこで仲良くなった人に刺激を受けたそうです。 それが 2017年の8月。 「私よりも大変だろうに、どうしてこの人たちはこんなにキラキラしているんだろう」。 この時、同じテーブルについた 小澤綾子さん、梅津絵里さんと意気投合して車椅子グループを作ろうと誘われ、同年11月に「車椅子ガールズ」を結成されました。 デビューは渋谷のイベント。 この時はまだお仕事をされていたそうですが、出会う人がもうあまりにもステキだと感じて楽しくなり、仕事を辞めようと思ったそうです。 中嶋涼子さんの本領発揮ですよね、迷いがない! その後、 車椅子チャレンジユニット 「BEYOND GIRLS」と名称を変えて活動されています(現在は梅津絵里さんがステップアップのため休養されています)。 もちろん、一人での活動も積極的にされており、 テレビにも出演。 また、 車椅子不良ユニット「BadAss Sores」でも、ワイルドな一面を披露されています。 写真:車椅子不良ユニット「BadAss Sores」、左からレナさん、中嶋涼子さん。 それぞれのユニットで開設しているチャンネルはまた別にあり、かなり精力的に発信されていることがわかりますね。 この 「車椅子ですがなにか?」は今年の6月下旬からのスタートですが、視聴回数は驚異の 93万8千回。 その中で 73万回と飛びぬけて多かったのが、前回ご紹介させていただいた 「現代のもののけ姫Maco」さんとの対談でした。 左は 現代のもののけ姫Macoさん。 対談の模様のスクリーンショットです。 同じものがアップされているのかと思っていたら、 今回は逆になっていて、涼子さんがガンガン質問されているんです。 考えてみれば「そりゃそうでしょう」って事ですよね、独自のチャンネルをお持ちなんですから。 でもこの違いこそが、お二人の発信者としての共通の覚悟が見える気がします。 質問は結構イケイケ、でもちょっと緊張されているみたい。 その様子はとてもかわいいんですが、観方を変えればこれは勇気を振り絞っている瞬間、かも知れません。 どちらも未婚のお嬢さんです、当然ですよね。 この動画は「トークテーマの性質上ご覧になられる方によっては一部不適切と感じられる場合がございます。 あらかじめご了承の上、お楽しみください。 」という注釈が出てきます。 現代のもののけ姫Macoさん側の動画は10分弱。 どうか彼女たちの、聞きたくても聞けない人のための対談、という視点でご覧いただければ、と思います。 Rー18とありますが、なんだかあまり秘密の匂いがしないというか、場所も屋外でオープンですし。 そして、お二人とも、親友にもしないような話をあっけらかんとされている姿が明るくて、 「悩んで聞けずにいる人がいるかも」という前提があるように感じました。 一番つらいのは、相談できずに孤独になる事だと知っているから、あえてチャレンジされたような気がします。 まとめ 中嶋涼子さんは明るくされていますが、動画を観ていくうちに、こんな言葉が出てきました。 「受け入れるのに15年かかった」。 とても驚くと同時に、納得できる部分もありました。 彼女は階段から落ちたとかの事故もなく、原因もはっきりしないままなのです。 10歳に満たない女の子が、排泄の感覚がないというのはどれほどの衝撃か。 夢だった映画製作にかかわる仕事を、通勤の厳しさに阻まれた虚しさはいかほどか。 でも今の彼女は、舞台やテレビなど輝く場所に物怖じせず出演し、頑張っておられます。 彼女が最初そうだったように、 「車椅子だと外でみんなに見られてイヤ」という思いを乗り越えられずにいる人に、 「私を見て」と、 エールを送っているかのよう。 車椅子ってカッコイイんだ、と彼女ならみんなに思わせてくれるかも知れません。 大きな彼女の挑戦を、応援し続けたいと思います!.

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